SAMURAI DEEPER KYO ほたる
男が釣りをしていると、淵から一匹の蜘蛛が出てきた。男を草木や岩と勘違いしているのか、蜘蛛は男の足に糸をかけた。蜘蛛は淵へと潜り、そしてまた男の脚に糸をかけに戻ってくる。蜘蛛は淵と男の脚を何度も何度も往復した。湿地。
ぬかるんだ地面から、鬱蒼と茂った木々からむわりと水の気配が溢れている。
嫌な土地である。
泥仕合になるわね、と灯が言っていた。
確かに、その戦は文字通りの泥仕合だった。血と汗と、臓物によって汚れるのならば許せる。だが、泥は嫌だ。泥にまみれて戦うのはいかにも弱者なようで気に食わない。
泥仕合。見るに耐えない醜い戦い。
事実、醜かった。後方のほたるにまわってくるのは農民上がりの雑兵ばかりで、ある程度骨のありそうな強者はことごとくがほたるに到達する間もなく肉片になっていた。
恐慌、とも言うべき状態で、亡者のように押し寄せる有象無象をほたるは思う存分焼いた。逃げた者も焼いた。焼き尽くした。
面白くなかった。
だがしかし、今夜は祝宴である。三人の酒豪と一人の下戸はさぞ盛大に騒いでいることだろう。
面白くなかった。
何も祝う気になれなかったほたるは早々と宴を抜けた。目聡くアキラが絡んできたが、ほたるの欲求不満を感じ取ったらしい梵天丸と灯がやんわりとそれを制した。もっとも彼らなりの制しかたなので、今頃アキラは飲めもしない酒を無理矢理飲まされたりしているのだろう。なんにせよそれはほたるの与り知るところではなかったが。
面白くない。
フラフラと森をさまよって、それも飽きたほたるはぺたりと地べたに座り込んだ。
地面を少し焼いて湿気を取り除く。が、嫌いな水の気配はやはり濃厚に闇夜に満ちていた。
面白くない。
ふと、空を見上げると何故かそこに月があった。茂った枝葉が空を覆い隠しているものと、そう思いこんでいたために少し拍子抜けする。
満月だ。大きいが、赤い。鬼眼の色に少し似ている。この満月の映った自分の瞳も今はあの鬼の眼の色に染まっているのだろうか。
それならば、少しだけ面白い。
そんなことを思いながら、ほたるは船を漕ぎ始めた。
懐かしい。
――…… …コ ……
……イ ……―― コ――……
小さな鈴を転がすような女の声が聞こえる。
懐かしい。
――ケ…… ク……
……――イ――…… コ……
赤ん坊をあやす子守唄の断片を聴いているようだった。
何が、懐かしいのだろう。
それは、分からないけれど。
ほたるはゆっくりと瞼を押し開けた。
鈴の声が、
――……螢、惑……――
ほたるを、呼んだ。
ほたるは闇に問いかける。
「……灯ちゃん?」
口に出してから、それはないと思い直した。彼女はこの名を知らない。そして、この鈴の声は彼女の声音よりもずっと高くて、弱い。
――螢惑……螢惑……――
ああだけど。
「誰?」
どうして、こんなに懐かしいのだろう。
――螢惑……ここよ……螢惑……――
風が吹いた。
決して強くはない風は、茂みをさらさらと揺らしてほたるをその奥へと誘う。
――螢惑……螢惑……螢惑……――
声は何度もその名を呼ぶ。もうほとんど忘れかけていた名前。けれどもその言霊を囁かれると、胸の奥がざわざわと揺れた。
――螢惑、螢惑――ここへ、来て――
ほたるは腰を上げた。夢の中を歩くようにふらりふらりと足を運ぶ。
視界が白く霞がかる。一瞬山火事かと思ったが、生木が燃える煙特有の臭いはない。その代わり、一際際だつ水の臭い。
霧だ。
濃い霧がねっとりとほたるの肌に絡む。虚空を漂うそれに、粘りなどあるはずがないというのに。
茂った草木をかきわけてほたるは進む。さほども歩かぬうちに高下駄が踏みしめる大地が、湿った土から乾いた砂利へと変わっていった。
螢惑、螢惑、と呼ぶ声の裏側に、さらさら、さらさらと水の流れる音が混じっている。
ほたるは足を止めた。
そこは沢だった。水面の上を流れる風が水を空中へとまきあげ、白い霧を生み出している。
――……螢惑……――
また風が吹く。
風に流され、霧が晴れた水面。
――……螢惑……螢惑……――
広がる波紋の中心に、女が立っていた。
「……」
女は黒地に赤い斑のある着物を纏っている。裾が膝のあたりで広がっているために、風で布が揺れるたびに白いふくらはぎがちらちらと水面に映った。
――螢、惑――
長い髪が風にそよいでいる。それにしても長い。膝の裏にまで届きそうな髪だ。その髪に縁取られた輪郭の中で、赤い唇が、ふ、と微笑んだ。
――おいで――
「……」
ぱちゃん、と水音とともに爪先が濡れた。
水に濡れることも厭わず、引き寄せられるように、ほたるは川へと足を踏み入れた。
ただ女に呼ばれるから。ほたるは無心のままにふらりふらりと歩いた。
――螢惑――螢惑――
ほたるの視界の中で、女はどんどん大きくなる。女の笑みを見続けるためには、顎を上げて女を仰ぎ見なくてはならない。
――螢惑――
腰まで水に浸してようやく、ほたるは女が大きくなっているのではなく、自分が縮んでいるのだということに気付いた。子供の体へと退化しているのかと、ちらりと疑ったが、単に体が水に沈んでいるだけだった。
女は水面に立っているのだ。
ほたるは水が淀んで深くなった淵へと入り込む。水深は鳩尾に達し、ようやくほたるは女に辿り着いた。
女は深く笑んで身を屈める。長い髪がほたるに降りそそいだ。
――お顔を、見せて――?
女の手が頬を撫でる。乾いてはいたが、温かくも冷たくもない手だ。
――……大きく、なったわね……――?
「……」
声は相変わらず小さな鈴のような声だった。長く艶やかな髪がその声の振動で震える。
――わたしのかわいい、ぼうや――
女はほたるを抱きしめた。
――螢惑、螢惑……――螢惑……ッ――
「……泣いてるの?」
問えば、抱きしめる腕に力がこもる。
――螢惑……っ螢惑……――!
ふと、ほたるはむせび泣く女の顔が見たくなった。だが、こうも強く抱きしめられるとそれはとても難しい相談だ。
それでも、どうしても、見たかった。
「……ねえ」
顔を見せて、と頼もうとして、ほたるは少し困ってしまう。
この女の名前を、ほたるは知らない。
なんと呼べばいいのだろうか。
――螢惑、螢惑――
考える間にも、女は例の声音で言葉を紡ぎ続ける。
――これからはずっと、ずっと一緒よ、螢惑――……どこにも、いかないで……――ずっと。ここに、いてちょうだい……――
ほたるは首を振った。
「それは無理」
その応えに、女はよりいっそう悲壮な響きで囁き、ほたるにしがみつく。
――いかないで。いかないで、螢惑。いかないで。ずっと、ここに――
ほたるはひどく悲しくなった。
女の顔も名前もどうでも良くなったことが、何故かひどく寂しかった。
「……もう離して」
いかないと。
――駄目よ。駄目。いかないで。はなさい。いかせない。ぼうや。わたしの――
女は離してくれない。
――わたしの――ゲッ……――!
メリリ、と堅い音を軋ませながら、ほたるの刀が女の眉間に突き刺さった。
ほたるは鞘に収めたままの刀の柄を握っている。柄を挟んだ鞘の反対側には、白い布で覆われた短刀がついていた。布で覆われたままのその刃を、ほたるは女の眉間に突き立てた。
――ガッ、ゥガ……ゲッ、ケ――
しかし眉間に刃を差し込まれてなお、女は絶命しなかった。
――ガ、ケ、カカ、……かし……賢い、賢い……賢い……――
ほたるにしがみついたまま、女は嗤った。
刃の覆い布が女の体液の色に染まる。赤ではない。水分をあまり摂らなかった時の尿のような色だ。小便臭いわけではなかったが、ひどく生臭い。
――かし、カカ、か、カカ、おいで――
女は呼ぶ。
――おいで。おいで。わたしの、ぼうやたち……――
ざわり。ざわ。ざわ。ざわり。
ぼうやたちは、女の長い長い髪を伝ってやってきた。
ざわざわ。ざわり。
沢山の、蜘蛛だった。
右腕を上げ、女の眉間を貫いた格好のまま身動きがとれないことにほたるは気付く。
女が動きを封じている。ほたるに絡まった女の髪は、粘りのある糸だった。ほたるは糸に捕まっていた。
――カ、カ、賢い、賢い、賢い――
「そうでも、ないよ」
――賢い、賢い、かし――ガぁッ!
手首の動きで刀をひねると、女だったものはようやく沈黙した。
糸はほたるを戒めたままだった。水面に広がった糸の上を大小様々な蜘蛛たちがほたる目指して這ってくる。小指の爪ほどの蜘蛛もいれば、赤ん坊の頭と同じくらいの腹を持つ蜘蛛もいた。総じて、黒くてところどころに赤い斑模様を持っていた。
おびただしい数だが、不思議と、おぞましさはあまり感じない。
手の平ほどの大きさの蜘蛛がとうとうほたるの肩に辿り着いた。
がふり。
「……っ」
喰われた。
首から肩にかけての筋に鋭利な牙が喰い込んだ。生きたまま、生肉を喰らわれるこの苦痛。感じるのは痛みではなく、熱だ。熱い。熱い。熱い。
この糸を、蜘蛛を焦がせと炎を喚ぶ。しかし変わりに吹き出たのは赤い血液で、流れる水に溶けながら残忍に体温を奪ってゆく。
ほたるはため息をついた。
「……だから……」
だから、水は嫌いだ。だのに自分は、炎も喚べずに水中で、蜘蛛に喰われて死んでゆくのか。
みずの、なかで。
それは、あまりにも。
あまりにも。
面白くない。
熱い。熱い。喰い千切られた傷が熱い。
ガチガチと動く蜘蛛の顎の隙間からちろりと舌が覗いた。――いや、蜘蛛に舌はあっただろうか。ないだろう。ならばあれはたった今喰い千切られた己が血肉か。
「……」
それも、違った。
蜘蛛たちは火気を吐き出しているのだ。暗闇の中に赤い炎が斑となって踊っている。
熱いはずだ。皮膚の下に、炎が牙とともにもぐりこんでいるのなら。
ほたるは低く呻いた。
「……ムカつく」
深く深く怒っていた。
この蜘蛛が火気を操るというのなら、自分は喰われるわけにはいかない。
それでは負けることになる。
それは。それだけは。
面白くない。
「……燃えて、しまえ……!」
ほたるは、ぎりと奥歯を噛みしめた。
焔よ。
――来い。
そこは、放棄された仏閣だ。瓦は割れ、床板はところどころ腐ってはいたが、この死んでしまった寺こそが今回の戦の拠点だった。
また次の戦へと向かうからには、今日でこの根城ともお別れだ。ボロいなりにそれなりに愛着も湧いたねぐらとの別れもあってが、東の空が白み始めた今でも祝宴は未だたけなわだった。
「ただいま」
荒れ果てた境内に入ったほたるの姿を見つけ、怒りくるったアキラが駆けだしてきた。
「ほたる! お前ろこにいってたんらよ!」
やはり無理矢理飲まされたらしい。意識ははっきりしているようだが呂律が回っていない。
「お前のせーでッ……ってほたるう!?」
「……何?」
「なに、じゃねえよ!! 灯ッ!! 灯ッ!!」
半ば叫ぶようにアキラが名を呼ぶと、明らかにできあがってるらしい声が上がる。
「なあによおアキラー。今いいとこなのー。だいたいあんたいつからそんなに偉くなったワケぇ? そっちがこっちに来なさいよー」
「ちがうんだよっ! ほたるがっ!!!」
「ほたるう? 帰ってきたの?」
堂の中から灯がのそりと顔を出した。
その顔から、みるみるうちに酔いの赤みが消え失せてゆく。
「……ほたる……アンタ……!」
「なんだあ?」
続いて堂内から現れた梵天丸も、ほたるの姿を見るなりぽかんと口を開ける。
「灯っ、治療ッ治療!!」
アキラの声に我に返り、灯は慌てて錫杖を持って境内に降りてくる。
「ほたる、アンタどうしたの? 死にかけじゃない。っていうか死ぬわよそれ。むしろちょっと死んでない? なんだか器用ね」
灯はほたるの眼前に立ってまくしたてる。
ほたるはぺたりと地面に座り込んだ。――くずおれた、という方がより正確かもしれない。さすがに血が足りないようだった。
無精ヒゲを撫でながら、梵天丸は呑気に言う。
「ひでえザマだな」
地に膝をついたほたるは、濡れそぼった髪や着物からぽたぽたと水滴を滴らせ、体のあちらこちらから未だにだくだくと出血し続けていた。
「治すわよ? 治すからね? 秘密は後でいいけどちゃんと言わなきゃ駄目よ? いいわね?」
こんなときでも灯はきっちりとそう前置きして、そしてほたるが小さく頷いたことを確認した。錫杖を掲げ、ほたるに左手をかざして瓶から瓶へ水を移しかえるように生命力をほたるの体内へ注ぎ込む。
水に奪われていた体温が戻ってくる。それと同時に体中の痛みがゆっくりと癒えてゆくのをほたるは感じた。
「とりあえずある程度は治したけど、血が全然足りてないんだからあんまり動いちゃ駄目よ」
どうやら終わったらしい。ほたるはゆっくりと顔を上げる。
「あ、ほたる。肩に蜘蛛がついてるわよ?」
言われて、肩口を見ると小さな蜘蛛がそこにいた。
黒くて、赤い斑模様のある蜘蛛だった。
「……」
ほたるは無言でそれを払う。
それを見て、思い出したように梵天丸が言った。
「夜の蜘蛛は親でも殺せって言うよな」
「なあに、梵? ジジくさいわよ」
「だいたい迷信ほざくようなガラかよ」
――親でも殺せ。
ほたるは薄く微笑んだ。あまりに小さい笑みだったので、軽口をたたき合う三人は気付かなかっただろう。
「……もう、殺してきた」
それに、
東の空は、もう明るい。
さっぱり釣れぬので、男はもう帰ることにした。ふと脚を見れば蜘蛛のかけた糸が淵へと伸びている。せっかく作った巣が壊れるのも忍びなかろうと、男は蜘蛛の糸を傍らの切り株にかけた。男は立ち上がる。
すると。
男の目の前で、切り株が物凄い力で引き抜かれた。切り株はぶくぶくと泡をたてながら水中へと沈んでゆく。
声が聞こえた。水の中からである。
――……賢い、賢い、賢い――