TIGER & BUNNY モブ×イワン

自身の尊厳すら見失っていた哀れな人間が、
みっともなくも確かにヒーローになった話をしようじゃないか。

夜の公園、季節は春。モブ男は一人でぼんやりと花見をしていた。今日もひどいストレスを抱えた仕事帰り、家へ帰る力も途中でつきて、手近な店で酒とつまみを買ってベンチにだらりと座り込んだ。

ふと、モブ男は公園のブランコが揺れていることに気が付いた。こんな時間に子供が一人、ブランコに座って力なくうなだれている。子供は背中を丸め、ブランコをこぐわけでもなく地面をじっと見つめている。色の薄い髪と肌が公園の電灯にぼんやりと浮かび上がり、まるで幽霊みたいだなとモブ男は思った。

こちらの視線に気がついたのか、少年は顔をあげて、モブ男を見た。公園には、二人のほかに誰もいない。モブ男は目をそらすタイミングを完全に失い、少年もまたモブ男を見つめたまま動かない。

中途半端な距離を挟み、モブ男はこんばんは、と言った。これだけで通報されかねないなと内心おどおど冷や汗をかいている。

少年は育ちがいいらしく、こちらが挨拶をすると丁寧に頭を下げた。いきなり知らないおっさんに話しかけられて、警戒はしているようだったが「もう子どもは家に帰らなきゃいけないよ」と言うと、それまでの警戒は消えその表情は沈みこんだ。

わけありかとモブ男は思ったが、一度は帰りなさいと言ってしまった手前、どうすることもできずコンビニ袋からつまみに買ったスナック菓子を一つ取り出して、もう一度言った。「このお菓子あげるから、もうお帰り」

戸惑いながらもスナック菓子を嬉しそうに受け取った少年を見て、モブ男はますます胸を痛めた。お腹をすかせてこんな時間まで外にいるなんて…と子供の家庭環境が心配になった。

ただ、もう二度とその子供と関わることはないだろうともモブ男は思った。

だがこのモブ男の想定は、ほんの数日後に盛大に裏切られるのだった。

ある日曜日の昼下がり、外を歩いていたモブ男は偶然あの少年を見つけた。夜のブランコに一人で座っていた時のように、うつむき、とぼとぼと歩いてる。

人気のない町外れへ歩いていく少年の足取りになにやら不穏なものを感じ、モブ男は挙動不審にうろたえた後、結局そのあとを尾けてしまう。…通報されるかもしれないという恐怖と戦いながら(二回目)

町外れ、人通りも交通量もほとんどない橋の上、その中程の位置で少年はふらふらと立ち止まった。見晴らしのよすぎる場所である。少年に見つかることにびびった男は橋の下、河原に降りて遠くから少年の様子をうかがう

モブ男の目には、少年はふらふらと一人遊びをしているように見えた。年頃の少年の無謀さ、危険への無知さなのか、橋の欄干によじ登りぴょこぴょこと歩き出した時にはモブ男は心臓が止まりそうな思いがした。

きっと子供過ぎるゆえに、恐怖という感情すら育っていないに違いない──そう思うモブ男の胸中も知らず、少年は無造作に欄干に腰掛けた。道を背にして少年がこちらがわに向いたことでモブ男はたいそううろたえたが、どうやら少年は川を眺めているようだ。

空中に投げた両足をゆらゆら揺らしている様を見て、モブ男は少しほっとした。忍者よろしく欄干の上を動き回る姿が心臓に悪かった、ということもあったが、なんとなくそこに腰掛けた少年がようやくモブ男の常識が知るような子供らしさを見せたように思えたのだった。

こんなところまで尾いてきてしまって、俺はいったい何を考えていたのだろう…ふと我に返るモブ男。帰ろうかと思ったが、少年の体は河原のこちら側を向いている。今モブ男が茂みを揺らせば、きっと少年はこちらに気付くだろう。

ふいに、ゆらゆらと揺れていた少年の足がぴたりと止まった。決してこちらに気付いたわけではないようだ。少年は俯いたまま流れる水面を見つめている。ひやりと嫌な予感が背中を駆け抜け、モブ男は自分が少年についてきてしまった理由に気付いたのだった。

両脇に添えられていた少年の細身の腕が、ぐっとつっぱった用に見えた。「qあwせdrftgyふじこlp;@:」次の瞬間、モブ男は若干古めのネットスラングのような悲鳴を上げながら、川に落ちた――飛び降りた少年に駆け寄った。

春の川は冷たく衣類に染みこみ動きを鈍らせる。その上濁った水は川底を隠し、モブ男は何度も転び、その度に水を飲んだ。もう手遅れかも知れない、そう思いながら水に浮かぶ少年を抱き上げ、河原へ運ぶ。

少年はぐったりとしていたが、呼吸はしっかりしていた。素人判断の恐ろしさはモブ男も知ってはいたが、外傷らしい外傷もないように見えた。水に濡れた寒さのせいか、ガタガタと震えている。そして、意外なことに意識もある。ぐったりしているのに?
「病院に行かないと」なまじ少年に意識があったため、自分が何をしたいのか説明しなければと混乱していた。「親御さんに連絡しないと」モブ男が言うと、少年はガタガタと震えたまま泣き出した。

しくしくと泣き出した少年に、モブ男は困り切ってしまった。モブ男はダメ男なのだ。何故ダメ男として大人になってしまったのかというと、少年に同情せざるをえないような、少年の身に現在何が起こっているのか想像できるだけの過去がモブ男にもあったからこそだった。

「おこられる……」絞り出すような少年の声を聞いて、勝手な感情移入をしきったモブ男は少年を抱きしめた。そのまま抱き上げ、走り出した。少年はきょとんとしている。モブ男は無我夢中で走り出した。

もし、今この子に悲鳴を上げられたら、もし、今誰かにこの姿を見られたら、きっと通報されてしまうだろう。三度目の恐怖だった。だが、今はそんなには怖くない。腕の中の子供は、何かに死にたくなるほど怯えていたのだ。通報される恐怖があったとして、それは死ぬほどの恐怖ではないのだ。

ずぶ濡れの子供を抱きしめ、道を走る姿はやはり目立つ。そう多い人数ではなかったがすれ違う人々が皆モブ男を不思議そうに見た。ただ、腕の中の少年が悲鳴を上げることもなく、むしろぎこちなくもしっかりとしがみついてくれていたのがモブ男にとってはこの上ない救いだった。

引きずり込む、というべきなのか、モブ男は自宅に少年を連れ込んだ。冷え切った細い体を風呂場に放り込むが、少年はやっぱりきょとんとしている。「お湯、使って」反応の薄さに不安になり、モブ男はシャワーのコックをひねり、お湯を出した。

「シャンプーとか石鹸とかも、使って」片言しか出てこない。元々口べたなモブ男だが、今日は輪をかけてひどい。「服は、この中に」洗面器を指すと、少年の反応も待たずにモブ男は浴室から出ていった。

都会の川などはっきり言って汚水の流れるどぶ川だ。モブ男も汚泥にまみれていたから、肘から先だけ洗面所で洗って雑に拭いた。ついでにズボンも脱いだ。足も拭いてパンツ一丁のモブ男は少年に使わせる清潔なタオルを用意した。

モブ男は子供とは言え見ず知らずの人間を家に入れてしまったことを少し後悔した。モブ男は孤独な人生を生きてきたので自室に他人を入れたことは初めてだったのだ。見られたら恥ずかしいもの(主にエロ関係)や、金目のものや、盗まれた困るようなものは隠しておくべきかもしれないとモブ男は考えた。

だがなんとなく、少年はモブ男が困るようなことはしないような気がした。モブ男はダメ男だったので、そうやって人を信じては裏切られてきた。そういった自分の弱点を知っていながら、毎回学習も耐性もつけることはなく、騙され続けては傷つき続けるような男だった。

ガタガタと立て付けの悪い風呂の扉が揺れて、モブ男は少年がシャワーを浴び終えたことを知った。磨りガラス製のドアに体を隠して、おずおずと顔だけがこちらを伺っている。曇りの入ったガラスだが、少年の肌の白さと、その体のいたるところに青い痣が浮かんでいるのが分かった。

モブ男は、どうやったら、どういうことをされたらそういうサイズの青痣が、服に隠れた場所に浮かぶのか知っていた。それがどれだけ痛いかも、そういう経験をした子供が、どんな心を持つ大人になってしまうのかも、自分の身をもって知っていた。

モブ男は少年にバスタオルをさしだした。なんにせよ、モブ男もシャワーを浴びたい。交代、とだけ短く言うと、少年は慌てて浴室から出てきた。焦らせるつもりはなかったが、低いモブ男の声が少年には怒っているように感じられたのかもしれない。

すれ違う時、少年の体を見ないように目をそらしたのは不自然だったかもしれない。だが本能的に目を留めずにはいられない青痣には気付いてないふりをしたかったし、更にモブ男はわりと豊かで幅の広い性癖を持っていたため、少年の乳首や股間を凝視するのを自省するのも一苦労だった。

一人暮らしのモブ男の部屋は、ごく標準的な単身者向けのアパートだ。部屋の中から自由に出られる鍵ではあるが、モブ男はあえて鍵をかけなかった。不用心なことをしていると自覚しながらも、モブ男がシャワーを浴びている間に、少年が逃げ出してくれたらいいのにと願ってすらいた。

モブ男が浴室から出てくると、少年は大判のバスタオルを羽織るように肩にかけて立ち尽くしていた。amaz○nの段ボールやらコンビニ弁当の空き容器といったゴミからかろうじて露出したカーペットの一角に立っていた。おそらく、モブ男がシャワーを浴びている間ずっとそこに突っ立っていたのだろう。

なんとも気まずかった。大人として、少年を窘めたり、叱ったり、または事情を聞き出したりしなければいけないのかもしれなかったが、はっきり言ってモブ男はコミュ障だった。ソファの上に脱ぎ捨てた服や雑誌などの積み上がった諸々を雑に床の上に落として「座っていいよ」と言うのが精一杯だ。

モブ男が座ると、人一人分の隙間をあけて、少年もおどおどと座った。許可されないと座ることもできない、そんな習慣が少年の身に染みついているように見えるのは、モブ男の勝手な妄想だろうか。実際、ただの妄想かも知れない。部屋が汚すぎて座ることをためらっていただけかもしれないのだ。

ソファに並んで座って、やっぱり気まずいままに時間が過ぎる。マンガやアニメだったら、ここらで少年の腹がぐうと鳴るだろうに、五分すぎても十分過ぎてもそういうことは起こらない。このまま座り続けることに耐えられず、モブ男は立ち上がった。

少年はびくりと驚いたようだったが、それ以上の動きを見せることはなかった。モブ男はキッチンに入り、レトルトや冷凍食品を温める。腹の音なんかは聞こえなかったが、そろそろ、腹が減る時間だ。俺も、多分腹が減っている。実際には緊張して空腹など全く感じていなかったが、モブ男はそう決めつけた

モブ男は温めただけの料理を少年にさしだした。「お腹が空いてたら、食べて欲しい」少年は不思議そうにモブ男と食べ物を見た。手に持った食べ物の半分を少年に押しつけ、モブ男もやはり少年から人一人分の隙間をあけてソファに座った。

「食べたくなかったら、食べなくてもいい」少年を見ず、付け足すように呟いた。モブ男が自分の分を食べ始めると、少年もおずおずと口を付けた。最初の一口二口こそ大人しく静かなものだったが、三口目からはもうがっついて、かきこむように口へと運んでいく。はっきり言って汚い。

少年の勢いに驚いて、モブ男は初めて少年を凝視した。あっという間にすべてを平らげた少年は、軽い運動をした後のようにはあはあと息を弾ませている。「良かったら、これも」食べかけの食事を差し出すと、少年は今度はしっかりと受け取った。そして泣き出した。

ボロボロと涙を落とすが、食べることもやめないのでますます汚かった。泣き声はあげず、咀嚼音とたまに鼻をすする音しかしない。やがて食べ終え、涙は止まったが規則正しいリズムで小さな体が痙攣しはじめた。少年はソファに裸足を上げ、抱えた膝に顔を隠すように額をくっつけてしゃくりあげている。

秒針よりもやや速いスピードだった痙攣の間隔が少しずつ伸びて、肩が揺れる動きもしだいに小さく、鈍くなっていく。泣きやんだかと思った少年は、膝をかかえたまま寝落ちたようだった。まるで少しずつ電池が切れていくような動きにモブ男は不安になった。

少年の首と手首に触れて、脈をとり、死んだように眠った少年は実は眠ったように死んでいるわけではないのだということを確認して、モブ男はほっとした。だが同時に触れた体の頼りなさと痛々しさに頭のおかしくなるような思いがした。

もう一度、体を丸めて座ったまま眠り込んだ少年をしげしげと見つめて、モブ男は静かにその感情を受け入れた。

頭のおかしい人間になる決意をした。

その日は日曜日だった。これからどこかへ出かけるのであろう他人が道を歩いていたイワンの目にとまった。幸せそうな家族だった。子供は両親に甘え、楽しそうに歌っている。純粋にイワンはその光景を素敵だなと思った。どこに行くんだろうと考えながらその家族を見つめていた。

ふいにその子供がイワンを見た。こちらを指さして、何事かを言ったようだった。彼の両親らもまたイワンを見た。そして、子供をかばうように隠して、イワンをにらみつけた。汚いものを見てしまったと言わんばかりに彼らはせわしなく車に乗り込み、その場を去っていった。

イワンは、よその家族を不躾に見つめてしまったことを激しく後悔した。そしてその時気付いた。自分は、ずっと間違えて、勘違いをしたままだったんじゃないのかと沈む心が問いかけてきた。

僕は、間違って生まれて、間違って生きてるんじゃないのか。その問いがじわじわと胸にしみこんで、離れない。とたんに息苦しく、怖くなった。みんな、イワンの間違いに気付いていて、イワンの持っている余計なものが忌まわしいものだということを知っている。

誰もいないところに行かなくては――ふらふらと町外れを目指しながら、もはやイワンは苦しむことをやめることしか考えていなかった。この間違いは自分には正せない、ならば、もう終わるしかない。

幸いだったのか不幸だったのか、少なくともイワンの希望を裏切って、川の水深は怪我をするほど浅くはなかった。更にその深さはそのまま溺れることができるほどでもなかったようだった。だが刺すように冷たい水温に、イワンはこの痛みが自分を殺すのだと思った。

だが結局、死ぬことはできなかった。男の食べていた食事を受け取って、初めてイワンは数日前にもこの男と顔を合わせていたことを思い出した。夜の公園で、家にお帰りと言いながら、やはり食べ物をイワンに差し出してくれた男だった。

実はあの時、すでにイワンに帰るところはなかった。とうとう帰ってくるなと追い出されたその日に、どうしていいかも分からず公園にいたのだ。

これを食べたら、やはりまた同じように言われるのだろうか。イワンには帰る家などないのに。空腹が満たされて一気に押し寄せてきた感情の中に、安堵など微塵もなかった。ただひたすら、みじめで、恥ずかしくて、怖かったのだ。

暖かくて柔らかい寝床の中で、イワンは目を覚ました。瞼ははれぼったく頭はぼんやりとしていたが、こんなに気持ちよく眠ったのはいつぶりだったかもう思い出せない。それほど久しぶりの心地良さだ。どうしてこんなに気持ちいいのか、考えることすら億劫なほどうっとりとまどろんでいた。

ずっとそのままでいたかったが、人の動く気配が聞こえてイワンはベッドから飛び起きた。声にならない悲鳴が喉から漏れて、怯えて見開いた目がとらえたのは昨日ここにイワンを連れてきた男の姿だった。眠っていたはずのイワンが突然敏捷な動きを見せて、男も驚いて後退ったようだった。

「……朝ご飯を食べよう」緊張して体を強ばらせたイワンに、男は静かに言った。手招きをされ、昨日のソファにイワンは再び座った。シリアルと牛乳の注がれた深皿を左手に渡され、右手にスプーンを握らされる。男の顔を見ると、男はどうぞ、と短く言った。

おそるおそるそれを口にすると、男はため息をついた。イワンは一瞬びくっと硬直したが、男のため息に怒りや落胆が含まれていないことはすぐに見て取れて、ほっと安堵しながら食事を再開する。

男はイワン見ずに、訥々と喋りだした。時々言葉の合間に「あー」とか「うーん」とかが挟まり、どこか投げやりな口調だった。イワンには難しい話だったし、そもそもお菓子のような味の朝食を食べるのに夢中になっていて話を聞こうという意識も散漫だった。

「聞いてる?」聞いてなかった。スプーンを口に含んだイワンを見て男はまたため息をついた。そのため息には苛立ちは含まれていない。ただ両目が同情や憐憫の形に細められている。男はゆっくりとイワンに語りかけた。「君は、自分を捨てた」その通りだった。それは理解できてイワンは頷いた。

文字通り、イワンは昨日自分自身を橋の上から投げ捨てたのだった。「一度捨てられたものは、誰が拾ってもいいし、拾った人間の自由だと思わないか?」その理屈も理解できた。家を追い出される前から、ゴミ箱を漁って他人の食べ残しや食べかすで食いつないでいたイワンだった。

つまりイワンは男に拾われたのだ。一つ二つと男の言葉が理解できるて、ようやく話を聞く集中力が戻ってきた。男はこれから出かけること、帰ってくるのは夜になるだろうということ、お腹が空いたら台所にあるものを好きに食べること、そういったことをゆっくりとイワンに言いつけた。

「あと、逃げないこと」その言葉の唐突さに、イワンは思わず首を傾げた。どこに逃げるというのだろう。状況はやっぱりよく分からない。だがここは寒くないし、男はイワンに折檻をする気配も、怒鳴るそぶりすら見せない。ひもじい思いもしなくていい。

「いいね? これは命令だよ」念を押す声が腹に響くほど低かったので、イワンは反射的にこくこくと頷いた。その声の低さは、怒りだしてイワンを殴る大人の声によく似ていた。この男もイワンを殴るのか。緊張したイワンに男の腕が伸びた。

「それじゃあ、いってきます」男の指が、食べかすに汚れたイワンの口元を拭って帰っていった。痛みや衝撃に備えていたイワンをおいてけぼりにして、男はさっさと立ち上がり、鞄を持つと、振り返りもせずに部屋から出ていった。

店じまいは15時だったが、そこからが長い。もはや立身出世を望むことは諦めた身だった。それでも目標という建前のノルマに追われ、ぎりぎりそれをこなしていても嫌味ばかりがとんでくる。はっきり言って嫌な仕事だ。一般的には安定した職業と分類される職だったが、その実情はそれほどでもない。

精神を病み辞めていく同輩たちを尻目にモブ男がここに生き残っていられたのは、ひとえに家庭と出世をとっくに諦めたからだった。多くを望まないことで多くを望まれないというポジションに収まることをモブ男は早々に選択していた。あとはできるだけ疎まれないように息を潜めることが肝心なのだ。

今日もモブ男は定時を大きく過ぎた時間に家路についた。家に全裸で残してきた少年のことは気がかりではあったが、それでも長年身に染みついてしまった習慣と処世術を崩すことは難しい。

確かに鍵を開けて玄関の扉を開いたというのに、家中暗いままで人の気配を全く感じない。玄関の廊下から全ての電気を灯し、最後にモブ男は暗い寝室をのぞき込んだ。暗い寝室に明かりを灯し、ベッドを覗くとその上の毛布がこんもりと丸くもりあがっている。おそらくあの中身が少年なのだろう。

寝ているのかと思ったが、毛布ごしでも明るさを感じたらしくもごもごとその中身が身じろぎをしたのが分かった。「帰ったよ」「…」短く告げても何の返事も返ってこない。モブ男はどうしたの、と静かに問いかけた。毛布の中、少年はもぞりとまた動いた。

毛布ごしに触れると、それが小刻みに震えているのが分かった。もう一度、どうしたの、と尋ねると、ごめんなさい、と小さい声が聞こえてきた。モブ男はその声に目を剥いた。少年の声ではなかった。もっと低い大人の男の声で、モブ男はその声に覚えがある。ありすぎた。

驚きから、反射的に毛布をはぎ取った。抵抗する力は強く、最後の最後まで頭を毛布に埋め込んでいる。だが、ほとんど露出した体の大半は少年の体ではなかった。全裸ですらなかった。モブ男の力に毛布をすべてはぎとられ、出てきた顔は大人の男の半泣き顔だった。

見覚えありすぎる顔は、泣き出しそうに歪んでいた。毛布の中に隠れていたのはモブ男だった。毛布をひっぱったモブ男と全く同じスーツをくしゃくしゃにして体を丸めている。

「…NEXTだったんだね」モブ男はNEXT能力者をこの目で見るのは初めてだった。だがいまだNEXT差別の根強く残る土地である。もしかすると誰にも気付かれないよう、息を潜めるように力を隠す能力者はモブ男の周りにもいたのかもしれない。

都会から数ヶ月遅れで放送されるTV番組の影響で、その存在は一般的に広く認知されて、もちろん人権だって認められている。だが、ベッドの上のモブ男の怯えようを見れば、それは表層上のことでしかないことは明らかだった。

「どうしてその姿に?」尋ねると、胎児のように丸くなった体はぶるぶると震えている。あまりにも静かで気付かなかったが、どうやら泣いているようだった。「わ、わざと、じゃ、な」情けなく奇妙に裏返る声は自分のものだ。超常的な能力による現象だと分かっているのに頭がおかしくなりそうだった。

「さ、さわった、から」「…触った人間の姿になるNEXT?」正解を言い当てたらしく、もう一人のモブ男は少年の動きでこくこくと頷いた。震える声が補足する。「あと、い、いぬとか、いす、とか」どうやら、変身の対象は動物や非生物にも及ぶらしい。

「元には戻れるんだろう?」問えば、また頷きが返ってくる。「な、なぐ」「?」「なぐられたら、もどる」「なんで!」初めてあげたモブ男の大声に、少年はひっと肩をすくめた。

「だ、だって、み、みんな、『偽物』になったら、なぐる」荒げた声は少年に対しての恫喝ではなかった。彼をとりまく環境の絶望の大きさにモブ男は声を上げるしかなかったのだ。「いたくて、めがさめたら、もどってる」ぞっとするしかない。気絶するほど殴られるのが、彼の日常なのだ。

NEXTは能力者の成長ともにコントール可能な才能である、というのが一般の常識である。だが発動するそのたびに意識が飛ぶほどの暴行を受け、制御を覚える才能がどこにあるというのか。

「…殴ったりなんかしないよ」うめくように告げて、再び電気を消した。殴るという選択肢はもちろんモブ男にはない。だが非人道的な行為と知りながら、年端もいかない子供を殴る人間の気持ちが分からなくもないことが、また恐ろしいと思うのだ。

自分の姿を持った自分ではないものが、震え、怯え、弱さを晒しだしている。こんなにも本能的な畏れや怒りを呼びかけるものはなかなかない。許される暴力では、決してない。だがその暴力の根元は、その者自身の心を守るための防衛反応なのかもしれなかった。

電気を消したままの寝室で、モブ男は静かに服を着替えた。空腹だったし、仕事に奔走して埃や汗にまみれていたが、今夜はもうどうでもいい。

「疲れたので、もう寝ようと思う」だから、もう少しベッドの奥へ移動してくれないかとモブ男は丁寧に頼んだ。「…いっしょ…?」「そうだね」昨夜も先に眠った少年を奥に寝かせて同衾したのだ。「悪いけど、俺はベッドじゃないと眠れないので」

大の男二人が眠るにはかなり狭いスペースだが、モブ男がベッドから転がり落ちることはないだろう。床に落ちた毛布を広い、ばさばさとはたいて隣の自分にかけてやる。空調はきいている。毛布を譲っても風邪をひくことはないだろう。

「…そういえば、名前を聞いてなかったよ」少年が名乗らない限りは、モブ男に名前を尋ねるつもりはなかった。情が移りすぎることが怖くもあったが、そもそもこの家には二人しかいなのだから固有名詞を特に必要とは思わなかったのだ。

「自分の姿を、君とは呼べないからね」

朝が来た。モブ男が目を覚ますと、イワンと名乗った彼はモブ男が眠る寸前から寝返りすらうっていないように思えた。その身を隠すかのように毛布に全身をくるんで丸まって眠っている。最初の夜も腰をかがめて膝を抱えるようにして眠っていたので、この寝姿は彼の癖なのかもしれなかった。

毛布の隙間から覗いた髪は持ち主本来の淡い金髪とはかけ離れた色をしている。寝息に上下する毛布を少しだけずらしさえすれば、自分の寝姿を生で見れる貴重な機会ではあった。しかしそこは丁重に辞退したいところだった。

イワンにはまったく罪も責もないことではあるが、自分を好きになれないモブ男のような人間にはなかなか堪える視覚情報であることも事実なのだ。

伸びをして、ベッドから降りて朝食のことを考える。さすがに二人分の食事を支えるにはそろそろ買いだめした食料だけでは心許ない――そんなことを考えながら、寝室を出ていこうとしたその時、薄暗い寝室がちらちらとと青い光に染まったのだった。

ベッドを振り返る。毛布の塊が青く燃えているかのようににじむ光を放っていた。上げそうになった悲鳴をなんとかこらえ、モブ男はベッドにとりすがって毛布を勢いよく剥いだ。独楽回しのように軽い中身が転がり落ちて、床に骨のぶつかる鈍い音が響く。

ぎゃん!という犬のような悲鳴があがってモブ男は反射的に謝った。「あっごめ――」その言葉の終わりも飲み込んだ。「…戻ってる」「……?」「戻ってる」繰り返すと、イワンはまじまじと自分の手を見た。その次に足。細くて頼りない自分の手足を確かめた。最後にイワンはモブ男を見た。「もどった…」

表情はほとんど変わらない。ただ白い頬が一気にピンク色に紅潮していく。「すごい…もどった」ああこれは喜んでいるのかと、染まった頬を見てモブ男も心が浮き立っていくのを感じる。「やっぱり戻れるんじゃないか!」手を握り、イワンを起きあがらせて肩を叩く。

「もどった」また繰り返し、肩を叩かれるのがくすぐったいのか小さな体が跳ねるように揺れる。「もど――」よほど嬉しいのか、また繰り返そうとしたらしい言葉半ば、おぼつかない足取りがamaz○n的な空き箱につまずいて、べちゃっと転んだ。

「というわけで掃除をしよう」週末の休みがやってきた。モブ男は腕まくりをして宣言する。イワンに呼びかけたわけではなかったが、モブ男の声にイワンはソファからぴょこりと立ち上がった。相変わらず全裸だった。

彼が元々着ていた服は洗濯をして乾かすと想像以上にボロボロに擦り切れていて、とてもじゃないが着続けることができるような状態ではなかった。処分してもいいかと尋ねると、イワンは拍子抜けするほどあっさりと頷いた。代わりの服を請われることはなかった。

遠慮かとも思ったが、イワンはどう見ても二次性徴前の少年であったし、裸に対しての抵抗はさほどないのだろう。はっきり言ってモブ男にとっては眼福だったので、イワン自身が求めない限りは彼に服を与える理由は特に見あたらなかった。

この一週間の間に、イワンはあれから二回NEXT能力を発動させた。どちらもモブ男の帰りの遅い夜、一回は再びモブ男に、二回目は直前まで読んでいたと思われる本に変身していた。だぶらせて買った覚えのない同じ本が二冊、ソファの上に無造作に置かれていても最初はそれとは気付かなかった。

家中どこにもイワンがいないことを知って初めて二冊に増えた本にうろたえた。非生物にも変身できるとは聞いてはいても、いざ目にすると確かに扱いに困る。どちらがイワンなのか分からなかったので、二冊ともをそろりとベッドに置いてその日は眠った。

どの場合も、朝になる頃には例の青い光とともにイワンは自分の姿を取り戻した。そのことにはイワン自身が驚いて、不思議そうにしていたが、なんとなくモブ男には分かってきた。

絶対条件であるとは言わないが、彼の不安がその力の発動条件の一つなのかもしれなかった。自身を害するものはここにはいないと安心できてはじめて変身が解かれるのなら、それは変身というよりも、擬態と呼ぶ方が相応しいように感じた。だだそれはモブ男には胸の痛む仮説でもあった。

身を守るかのごとく備わった能力によって日常的に暴力を受けていたというのなら、まさに皮肉でしかない。まだその発動を見たのは三回で、法則性などを見いだせるような段階でないことは分かっている。だが、一週間に三回だ。その度に殴られていたのだろうかと思うと、モブ男の胸はじくりと沈んだ。

元の姿に戻ると、イワンはだいたい転びそうになるか、そうでなくてもひどく歩きづらそうにしていた。なるほど、自分の体の寸法がよく分からないのかと納得して、モブ男は障害物やゴミだらけの自分の部屋を深く反省した。そこからようやく本日の「というわけで掃除をしよう」に繋がるのである。

とりあえず床の上を露出させる所から始めるべきだ。片付け始めたモブ男に倣って、イワンも積み上がった段ボール箱を潰しはじめた。ありがとう、と気付いたモブ男が礼を言うと、その顔がぱっと明るくなった。頬を染めあげこくこくと頷く様は、控えめに言ってもはにかんで笑う天使のように可愛らしい。

そこに、ピンポンと玄関の呼び鈴の音が響いた。休みの日、この時間といえばまあアレだ。念のために覗き穴から外を見れば予想通りに宅配サービス員が荷物を持って待機している。どうやらまた箱が増えるようだった。

荷物を受け取り、リビングに戻ったがイワンの姿は見あたらない。不思議に思って見回すとソファの影に隠れてこちらを窺っていた。どうしたの、とモブ男は尋ねる。「見つかったら、ダメかと思って…」まあダメなんだが、ダメというか、モブ男がやばい。社会的な意味で。

モブ男はイワンにおいでと手招きした。この箱も開封したらイワンに潰して貰わねばならないのだ。箱に貼り付けられた伝票には「書籍」としか書いていない。正直この手の通販を利用しすぎて開けるまでは何を買ったのか分からない。手慣れた手つきで箱を開けると、中には漫画雑誌が入っていた。

爽やかな色遣いの表紙のイラストは、白いワンピースを着た可愛らしいキャラクターがにっこりと微笑んでいる。それはいわゆるわぁい的な雑誌だったが、表紙だけを見ればそこに描かれているのは一見少年とは思えまい。モブ男のように訓練されたその道の玄人であれば一瞬で分かることだったが。

全年齢向けではあったが、きわどいエロシーンの多い雑誌だ。箱から取り出してさっさと本棚へしまおうとすると、持ち上げた雑誌からずるりと分厚い何かがすべり落ちた。床に落ちたそれは、毎回雑誌の話題作りのためだろう、趣向を凝らして挟み込まれる付録だった。

毎回猫耳だったりブルマだったりパンツだったりスカートだったり、ネタ用なのかマジ用なのかを限定させない程度には実用にも耐えられる品で、毎回色はランダムらしい。それが床に転がっている。

それは、もう、誰の目から見ても首輪だった。全裸の可愛いショタのカラーイラストのピンナップ、ご丁寧にもそのショタの首の部位に切り込みが入り、そこにはめ込むようなラッピングだ。おかげでその首輪の使用用途はイワンのような子供かつ素人の目にも明白だった。

イワンも、モブ男も首輪を見てる。大変気まずい。だが誇り高き変態紳士の一人として、モブ男はここでうろたえるわけにはいかなかった。また大人として、毅然とした態度でいなければならない。「…こういうの」「すごく好き」動揺したら負けだと思っている。モブ男は男らしく頷いた。

イワンはそれを拾った。頬がじわりと紅潮している。

「…つける?」

「是非」

再び、モブ男は男らしく頷いた。

かくてイワンは全裸から首輪一つにグレードアップしたのだった。


全裸への抵抗はなさそうだったが、そこに首輪がついてイワンは恥ずかしそうにもじもじしてる。悪くない。というかイイ。思うままの感想を告げると、イワンはまたじわっと赤面した。首元の金具をいじって「…変じゃない?」と聞いてくる。

「敬語だと尚いいかな」変かどうかというよりも変態的であることだけは間違いなかったが、何喰わぬ顔の注文にイワンははっと打たれたような顔をした。「へ、変じゃない、ですか」「最高だ」賛辞に慣れていないのか、イワンの赤面が更に色濃くなった。耳は当然、首元は鎖骨まわりまでもが赤い。

すっかりのぼせてしまったイワンを前に、これ以上このネタでいじると倒れやしないかと心配になって、モブ男は掃除の再開を宣言した。赤面をひきずるイワンもいつものようにこくこくと頷いてそれに従う。首輪はつけられたまま、外される気配はなかったし、そもそも外そうという発想もないようだった。

実際その首輪は思いのほかイワンに似合っていたし(褒め言葉なのかどうかは微妙なところではあるが)、イワン自身も何故か気に入ったようだった。それを与えられて以来、彼が風呂に入る時とそれを洗濯をする時以外、イワンがこの家を出ていく日までその首輪が外されることはなかったのだから。

この休みで、やろうと考えていたことはいくつかあったのだった。だが長年の無精の結晶であった部屋の惨状をまともな状態に戻すのは想像以上に難しかった。要領も知らない男一人と子供一人が埃まみれになって、部屋がようやく見られる状態になったのはもう夕方も終わろうという頃だった。

シャワーを浴びた二人はソファに座り食事をとった。舞い上がる埃がなかなかおさまらない部屋であっても、空腹は心地よく満たされる。イワンもソファに深く座り、満腹の眠気に重たい瞬きを繰り返している。

モブ男は時計を見た。そろそろいい時間だ。掃除によって発掘したリモコンを手にとって、テレビをつけた。いくつかのCMがかわるがわる流れ、やがて耳に残るリズムとともに目当ての番組のタイトルロゴがでかでかと大写しになった。

『さあ、始まりましたヒーローTV――』お決まりの前向上から始まって、軽快なMCが画面の向こうで起こっている事件の実況を語り出す。テレビの中、ヒーローと呼ばれる者がまとう光。青い燐光が美しく尾を引き消えていく。その光に見覚えがあることに気付いたのだろう、イワンがはっと目を見張った。

「彼らはNEXTで、ヒーローだ」イワンはその声にモブ男を見て、そしてまたテレビを食い入るように見つめた。遅れ放送だったが、この土地でもそれなりの人気を博しているタイトルだ。だがイワンの瞳に初めて灯った光の強さが、ヒーローたちの存在を初めて知ったことを伝えている。

きらきらと輝くイワンの目を見て、モブ男は初めてその瞳が珍しい色をしていることを知った。濁り翳った暗い色は今はその横顔にはない。ヒーローTVが終わっても、イワンは呆けたように画面を見つめ続けていた。もう寝る時間だと、モブ男に促されてようやくベッドへ入った。

ベッドの中、やはり奥の壁際でイワンは胎児のように丸くなった。電気を消して、ベッドに並ぶとイワンがモブ男を見ている。暗い部屋、それでもイワンの頬が赤いことがわかった。「…ありがとう」囁くように小さな声がモブ男に告げた。どういたしまして、応えるとイワンが頷いた気配が分かった。

「おやすみ」「…おやすみなさい」なかなか寝付けないのか、イワンは何度も寝返りをうった。背中越しにそれを感じながら、モブ男はゆっくりと眠りに落ちる。明日も仕事だ。行きたくないが、まあ、頑張れそうだ。

それから数年。二人の生活は奇妙な形を保って続いている。モブ男は相変わらず冴えないダメ男で特に出世などはしてない。イワンは相変わらず細い首に首輪をつけていたが、もう全裸ではなかった。

ある日の風呂上がり、のぼせやすいイワンがいつものようにソファに座って涼んでいる股間がちらりと目に入って、モブ男はめざとくそこに変化を見つけた。まじまじとモブ男が見つめて、イワンもその視線を追いかけてそこを見た。そこには淡い色の毛が薄く生えはじめていたのだった。

イワン自身もその時初めて気付いたのだろう、それをモブ男の視線から隠すように勢いよく足を閉じた。そして、イワンはその日を境にあっさりと服を着るようになった。高熱を出して病院に連れて行くからと服を着せようとした時など、盛大に嫌がって泣き出すほどだったあのイワンがである。

華奢ななりに、身長も伸びた。ヒーローTVを見せてから、憧れるものがあったのかイワンがひそかに筋トレをしていることをモブ男は知っている。二の腕に作った力こぶを触ってため息をつくイワンを見かねて、ジムにでも行くかいと尋ねてもイワンは首を横に振った。

彼は外に出ることを極端に嫌った。ベランダにすら滅多に出ない。いつの間にか必要に迫られる形でハウスキーピングの腕を上げたイワンだったが、洗濯物は絶対に室内干しだ。生活日用品や食材の買い出しもモブ男の仕事だった。

奇妙な共同生活だったが、家庭を持つことをほとんど諦めていたモブ男にとっては、擬似的なりに家族とも呼べる存在がいることは、どこか胸の内が勇気づけられるようで悪いものではなかった。

仕事でくたくたになった夜、部屋に電気が灯り温かい食事と「おかえりなさい」の声が待っていることにはほっとするような気持ちだったし、イワンの赤面症が徐々に治まる様と反比例するように、表情による感情表現を少しずつ覚えていく姿を眺めているのは純粋に楽しかったのだ。

そのイワンの様子が最近おかしい。元気がないのだ。元々声も小さく、年頃の少年にしては活力を有り余らせるようなタイプではないのだが、それでもイワンが沈み込んでいることは、それなりの期間、イワンの感情の発露を見続けていたモブ男には明らかだった。

いつものようにソファに並んでTVを見ていても、イワンの表情は晴れない。重くよどんだ空気に耐えられず、モブ男は隣のイワンを潰すように転がった。「え、え」相変わらず急な接触に弱い。いきなりのしかかられて硬直したイワンをモブ男はくすぐってみた。

何するんですか、イワンは笑った。久しぶりにイワンの笑い声を聞いたような気がして、モブ男は更に続けた。もうずいぶん前、同じようなことをしてきゃっきゃっと声を上げて笑うイワンを思い出したのだった。

あはは、と声を上げてイワンは笑う。しだいに苦しくなったのか足をばたばたさせて抵抗しだした。やめて、やめてください、ほんとに、せっぱ詰まったイワンのひきつった声に加減を間違えたことを知ってモブ男はすぐに手を離した。モブ男の体の下、イワンは顔を赤めて荒い息を繰り返している。

涙の浮かんだ視線を外したまま、イワンはもごもごと何事かを呟いた。これだけの至近距離にもかかわらず、全く聞き取れない。え?と聞き返し、耳を向けてイワンの顔に頭を近づけたが、彼の両手がモブ男を押し返した。

こんなに慌てたような性急さで接触を拒まれたのは初めてだった。驚いてイワンを見ると、彼は声を震わせて呟いた。

「…トイレ…行かせてください…」

無言で、モブ男はイワンから離れた。イワンはすぐに跳ね起きて、慌ただしくソファから立ち上がった。その間、意識的に顔を背けるようにしていることが明確に分かる首の動きで、モブ男を一切見ない。トイレの扉がばたんと閉まって、悪いことをしたと、モブ男はようやく頭を抱えた。

仕事中である。店じまいが終わっても帳簿と現金の収支が合うまではとんでもなくピリピリしている職場である。もちろん職場に関する心労はこれだけではなかったが、これも一つの大きな要因であることは間違いない。

先日、ソファの上での一件から、イワンとモブ男はどこかよそよそしい日々を過ごしている。他愛のないイタズラのつもりだったのだが、それ以来イワンはちょっとした接触にもぎこちなさを覗かせいる。相変わらずベッドは二人で使うが、イワンは壁にくっつくほどに隅で丸くなる。

モブ男への拒絶なら、そもそも同じベッドに入るのだろうか。自分をかたく抱きしめるように眠るその寝姿が、声を殺して泣く癖をつけていた頃のイワンと重なり、何かを堪えるようなものを感じてしまうのだった。

そういえば、二人は喧嘩なぞしたことは一度もないのだった。モブ男だっていつも正しく理性的な大人でいられたわけではなく(not性的な意味で)、疲れた時や気分が沈みこんだ時など、何も分からないイワンは理不尽な思いをしたこともあるだろう。

しかしどんな時もイワンがそのことに抗議したりふて腐れたりするようなことは一度もなかった。ただ悲しそうな顔を俯せてモブ男から離れ、翌日モブ男の機嫌が回復していればほっとしたようにまた隣へとやってくる。二人はずっとそんな距離でいた。

モブ男はキャバクラにはいくし風俗にもいくしPCのハードディスクの中には各種動画が大量にあるしエロ本などは各種嗜好ジャンルを定期購読する勢いのごく普通の男だ。そのコレクションに関してはイワンだってもちろん知っているし、それらは多分それなりの頻度でこっそり拝借されている。

自分だって通っている道で、イワンもまたそういったごく普通の健康な少年だということも知っていて、ましてやイワンの世界には生身の人間は自分しかいないということもちゃんと分かっていたはずなのに、モブ男はこういう日がやってくることをすっかり失念していた。

戸惑う気持ちは大きい。ただ自分の体の下、組み敷かれたような姿で赤面して涙目で震えるイワンの姿だとかトイレに駆け込む若干の前傾姿勢だとかあのあとトイレでオナニーしたのかなしたんだろうな~とかそういった諸々を考えると素直に可愛いな~と思う気持ちも大きいのである。

健康で性欲のコントロールも未熟なイワンくらいの年齢には普通によくあることだ。単純な体の誤作動ならばそこまで恥じるようなことではないが、普通に恥ずかしいことでもあるのも当たり前だ。本当に、単純な体の誤作動ならば、本当にそれはそれで何の問題もないのだ。

問題は、その体の反応に感情がともなっているかどうかだった。もしくは、これからともなう可能性があるのかどうか。それを考えると、モブ男は本当にどうしたらいいのか分からなかった。

実はモブ男は特別小児性愛に偏った性癖を持っているわけではない。色々な歪んだ少年期と青年期を経た結果、性格は多少歪み、性癖は他人より少し豊かになった。これも歪みの一つといえるものかもしれなかったが。

ショタと呼ばれる時間が終わり少年になっても、イワンは単純に可愛いし美しいとモブ男は思う。仮に、NEXT能力によってその姿が今とはかけ離れたものになったとしても、今と変わらず彼自身を好ましく思えるだけの気持ちや情はある。

ただ、だからといって手を出していいということにはならないのではないのか? 仮にイワンがモブ男に親愛以上の感情を抱いていて、モブ男もまたイワンに対して持て余しそうになるほどの愛情を持っていたとして、それは果たして恋愛といえるのだろうかとモブ男は考える。

思えば欲望一つにも余計な想像力を働かせてしまって人間らしい青春というものは何一つ味わうことのなかったモブ男だった。この性が男として欠陥的なものに近いことも知っている。イワンのことを考えていたはずなのだが、思考はどんどん自分を否定する方向へと傾いていく。

沈んだモブ男をよそに、張りつめていた仕事場の空気が一転して緩んだ。店の勘定が過不足なく合致したようだ。帰り支度に向けて残った仕事を片付ける者、終業後に寄る飲み屋の話をする者、それぞれが各々の個性を取り戻したかのように動き始める。

モブ男の今日の仕事は、もうすぐ終わる。だが家に帰ったとして、待っているのはどこか気まずい空気と終わらない自問自答だった。仕事が終わって、モブ男は調べものをするようになった。前もって、遅くなるから食事は先に、と伝えているが、イワンはその言いつけは滅多に守らなかった。

誠意というよりは単純な小心さからタイムカードは切っていたが、職場に残っていれば周りから大量の仕事が回ってくる。上司にめざとく見つけられ、平日なのに飲みにつれていかれることもしばしばだ。そうやって帰りが日付をまたぐ時以外、イワンは律儀にモブ男を待った。

「おかえりなさい」イワンの声に胸がちくりと痛むモブ男だった。忙しなく働いていたのは本当で、付き合いを断れないのも本当だったが、やはりイワンは今日も部屋から一歩も出なかったのだろうと思うと、今日もこの時間をあえて先延ばしにしてしまったことに酷い罪悪感を感じるのだ。

おそらく、二人のぎこちなさは時間が解決するだろう。それはモブ男には分かっている。ただ、その時間は、イワンの狭い世界の壁をどんどん強固に高く育てていく。そのことにイワンは気付いていない。だが、モブ男は確かに気付いていたのだった。

モブ男の予想通り、時間とともにぎこちなさは消えた。消えたと言うよりは、よそよそしさやぎこちなさにも慣れて、日常に取り込んでしまったという方が正しい。イワンが眠る時、壁際にくっついて丸くなる寝姿が彼の新しい癖になった。何も変わっていない。イワンは相変わらず沈んだままだった。

いつしか、イワンはヒーローTVを観ることをやめた。ふと気付けば密かに続けていた筋トレもやめたようだった。モブ男には異常なサービス残業と、上司へのおべっかが増えたままだ。口さがない同僚たちの言葉を借りた表現だったが、傍から見てそう見えるのならば、きっとそれは間違いではないのだろう。

そしてある朝、とうとうモブ男は倒れた。倒れたというよりは、動けなくなった。いつものようにソファで朝食をとっていたが、全く食が進まない。一口だけ口に含むと、じわりと嫌な汗が浮かんできた。一瞬にして喉がからからに乾いたかと思った次の瞬間、粘りの少ない唾液が口の中に溢れた。

あ、これは吐く。喉の奥からせり上がってくる熱いものを感じて、モブ男は必死にその衝動をやり過ごした。波が引いて、むしろ吐いてしまった方が楽だったのではということに気付いたあたりで、腹の内側、内臓がねじれ暴れているかのような激痛に襲われた。

だらだらと脂汗を流し、低く呻りながらソファにうずくまったモブ男をイワンが覗き込んできた。肩に触れてきた手が震えている。「顔色がひどい」とイワンの方こそ真っ青な顔で言ってくるものだから、君よりも? とモブ男にしては珍しく軽口を思いついた。ただ呻き声が言葉になることはなかった。

痛みに朦朧としながら、職場ではなく病院へと向かった。驚くことに、隣にイワンがいる。外を、二人で歩いた。歩いているというよりは、イワンに寄りかかり、支えられ時折イワンの漏れ出た泣き声を聞きながら、モブ男は病院にたどり着いた。イワンが高熱を出した時に二人で訪れた病院だった。

その時は保険証も持たないイワンとの関係を問われてひやりとしたが、何喰わぬ顔で知人の子供を預かっているのだと伝えると、病院の人間からのそれ以上の追求はなかった。首輪に関しては、ファッションというていで開き直ると誰もそこには触れない。誰もが面倒ごとを嫌ったためかもしれなかったが。

白いカーテンに仕切られたベッドの上で、モブ男は点滴を打っている。ベッドのすぐ隣ではイワンが神妙な面もちで安物のパイプ椅子に座っている。幸いなことに、病状は深刻なものではなく、不摂生とストレスと過労からくる胃炎だった。あれだけの痛みでこんなものかと拍子抜けした反面確かにほっとした。

点滴の痛み止めが効いてきたのか、絶え間なくひたすら腹パンされ続けるような痛みが徐々にただの鈍痛へと変化していった。楽になってきた、隣のイワンに伝えようとすると、見慣れた青白い光がまたたいた。「…ごめんなさい」聞こえてくるモブ男の声。イワンの能力を見るのは久しぶりだった。

モブ男の姿のイワンは、目を閉じ、数回ため息のような深呼吸を繰り返した。再び例の青い光が輝いて、イワンは元の少年の姿に戻る。この数年で少しずつ、能力のコントロールを覚えたイワンだった。元の姿に戻った表情はかたく強ばっていて、ひどく緊張していることが見て取れた。

心配させてしまったのだろう。そして、ベッドを仕切る薄いカーテンの外、他人の気配を感じるたびにびくびくとしている。本当に、外が、人間が怖いのだ。それでもここまで、自分の意志で、自分の足でイワンはモブ男をここに連れてきた。

「…ありがとう」モブ男の呟く声に、イワンは辛そうに顔を歪めた。眉間に皺を寄せて、歯を噛みしめている。涙を堪えているのか、目元がじんわりと赤くなった。言葉は何も返ってこない。その代わりなのか、イワンはこくこくと二回頷いた。見覚えのある反応にモブ男は小さく笑った。

一人で帰れるかい、と尋ねるモブ男にイワンは困ったように首を傾げた。仕事場には休養をとることを伝える連絡をしていたことは知っていたし、点滴を打ち終えるまでには時間がかかるとはいえ、二時間ほどで終わるだろうという看護士の話も一緒に聞いたばかりだった。

イワンは当然二人で帰るのだと思っていたのだろう、モブ男の横たわるシーツをぎゅっと握りしめる。「…待ちたい、です…」それは喉の奥から絞り出すような声だった。来た道を一人で帰るのはイワンにとってはとんでもない恐怖だろうし、モブ男を心配しているのだということも分かる。

「お腹が空いてしょうがないんだ」痛みがひいて、空腹だったことを思い出したのだった。温かくて、お腹に優しそうな食べ物を作って、帰りを待っていてくれないかとモブ男は丁寧に頼んだ。二人で使うベッドを詰めて欲しいと頼むような口調だった。

その口調に安心させるものがあったのか、イワンはそれ以上食い下がることはなかった。唇を横に引き結び、泣くのを堪えているのか笑っているのか分からない顔で頷いた。ここから家まではさほど離れてはいない。迷子になることはないだろう。

イワンの背中を目で見送って、モブ男は再び頭を枕に預けた。本当は、一人で考えたいことがあったのだ。ベッドの頭に吊された透明なパックから、薬液が一滴一滴落ちていく様をじっと眺め続ける。答えを探すと言うよりは、とっくに出ていた答えを受け入れるための心の準備の時間だった。

最後の一滴が落ちて弾けた。ナースコールを押して、残る痛みの具合を看護士に伝える。針を抜いて貰い、帰り支度をしながらモブ男はようやく覚悟を決めたのだった。

胃炎を断る理由にして酒の付き合いからは解放されたのは幸いだった。病院へ行った一件から、モブ男の調べものは明確な意志と具体的な目的を得た。いつしか下調べが下準備になり、下準備は根回しに、根回しは小細工へと変化する。

全てが報われたのは本当にギリギリのタイミングだった。今期を逃しても次がある、そう思うことも可能だったが、きっと来年にはイワンはますます壁を厚くして、自分の内へとこもるのだろう。だから、きっとこれで良かったのだ。油断すると、この成果をなかったことにしたくなる自分にそう言い聞かせる。

すでにイワンは外の情報すべてを嫌悪し、避けていた。ヒーローTVだけではない。TVニュースも、新聞も、モブ男の話でさえも、外界の話題に触れるたび、身を切られたように辛そうな顔をするのだった。知らないままでいたいのだと、うずくまりながら叫ぶようだった。

「これ」成果物の代表、A4サイズの封筒を二つ。うち一つをイワンに差し出した。「何ですか、これ」封は閉じられていない。イワンはさして疑問をもった風でもなく、封筒の中身を取り出した。手にとってそれを確認して、再び直前の言葉を繰り返す。

それは、都会の学校のパンフレットだった。ヒーローアカデミーと謳った表紙のインクと紙が独特の光沢を持って光っている。「…どういうつもりですか」呻くようにイワンは言った。ヒーローの文字列は、今のイワンには何よりも目に痛い単語だったに違いない。

「通え、と?」珍しくその声に滲ませた苛立ちも、モブ男がすぐに頷いたことで狼狽えて消えた。「冗談でしょう」できっこない、呆然と呟くイワンにモブ男は首を振った。「冗談でも嘘でもない。もう決まったことだ」当人が仕上げない限り受理されないはずの書類も片付けて、手続きはすべて終わっている。

「別に施しじゃない」そう断って、モブ男は二つ目の封筒をイワンに渡した。白地の封筒で、隅にはとある銀行のイニシャルをカラフルに図案化したマークが入っている。あの都市で、このマークを掲げている会社以上に信用できる銀行はおそらく存在しない。

「全部、君の負債だ」封筒の中には、締結済みの奨学ローンの契約書と、通帳が入っている。贅沢さえしなければ、学費と卒業までの生活を支えるには十分な金額が毎月振り込まれる予定だ。それらすべてがイワンの名義だった。「君は、自分のために、自分の力であの街に行く」

ただし、返済が一日でも遅れればその負債はモブ男の口座から返済されていく手はずになっている。どう転んだとして、モブ男以外が損をすることはない。それはモブ男があえて説明するまでもなく、封筒の中、甲乙丙で説明されるひときわ難解な文書の一枚を解読できればすぐに分かることでもあった。

イワンは力なく首を振った。「…いきたくありません」「駄目だ」「…僕は、どこにも」「駄目だ」とりつくしまのなさに、モブ男に譲る気がないことを知ったのだろう。イワンは黙った。手元のパンフレットの表紙をじっと見つめる。おそらく、ヒーローという、その単語を睨み付けている。

「…僕が、ヒーローになれるだなんて、思うんですか」「分からない」涙を堪えて、裏返りそうなイワンの声にモブ男は正直に応えた。信じれば、諦めなければ夢は叶うなんて、信じることもできず諦め続けて生きてきたモブ男には言えなかった。モブ男自身を惨めに貶めるだけのような気がしたのだ。

仮に、どれだけ信じても、努力を重ねても、どうしようもないことしかこの世にはない。なれるわけがない、イワンはそう思っている。残念ながら、モブ男もそう思う。どうしようもないことに満ちた世界で、どうしてイワンだけが都合良くそこをくぐり抜けられるというのだ。

「…ヒーローに、なれなかったら、帰ってきてもいいですか」青ざめた顔を強ばらせ、イワンの口から出てきたのは半ば以上泣き声だった。言葉が終わらぬうちに、涙が落ちて手元のパンフレットに染みを作った。そんなこと、聞くまでもない。答えは一つだ。モブ男は微笑んだ。

「駄目だよ」

「帰ってきては、いけない」イワンは顔を上げた。打ちのめされたような表情だが、口元だけは笑うような形にひきつっている。その唇が、声なくぱくぱくと動いた。「やっぱり」確かにその形だった。本当に、イワンにとっても聞くまでもない質問だったのだ。

モブ男が施しではないと言った瞬間から、多分分かっていたのだろう。ここにイワンを二度と帰さないための小細工だ。自分が苦しむような解釈に対して、イワンは痛々しいほどに聡い子供だった。「…邪魔なら、そう言えばいいじゃないですか」

「目の届かないところで死ねって、言えば」イワンの憎々しげな声は、バチン!と響いた音に中断された。どこか間抜けな音だった。イワンの頬を叩いた平手が、びりびりと痺れて、熱い。白い頬を振り抜いた動きのままモブ男は固まった。イワンも動かない。

つい、ごめん、と謝りそうになるのをモブ男は必死に堪えた。絶対に、意地でも謝るものかと歯を食いしばる。イワンの両目から、再びぼろりと涙が溢れた。「…だって、そういうことでしょう…」違う。違うが、イワンにとっては同じ事なのだ。

「許してください…ごめんなさい…」暴言への謝罪ではなかった。命乞いとも言うべき懇願だった。「…僕が、あなたに触られることばっかり、考えてたから」崩れ落ちるように頭を抱えて、イワンは嗚咽を漏らす。「それが、気持ち悪かったんでしょう」それも、違う。

「もう、近付かないし、ベッドも使いません」そういうことではないのだ。イワンがどうしていいのか分からなかったように、モブ男もまたどうしていいのか分からなかっただけだった。「お願いです…ここにいたいんです」

「もう、いいんです…もう、ヒーローなんて、どうでもいいんです」イワンにとって、ヒーローとはどういうものだったのか。初めてヒーローの存在を知ったイワンの瞳を、モブ男は覚えている。あの時イワンは、人間としての尊厳を、誇りを、希望をようやく取り戻したのだった。

イワンは、それらにどれだけの価値があるかも分からずに、捨てると言う。その先には衰弱しか待っていないのに、イワンは自分にすでにその兆候が出始めていることにすら気付いていないのだ。言うなれば、今イワンは生きることを否定しながら生きている。

イワンがどんなに泣いて頼んでも、モブ男は首を縦には振らなかった。イワンは誤解をしたままだったが、その誤解を解くことは、イワンに帰ってくる理由を与えることと同じだった。余計なことは言わないでおこうと、できるだけ口を開きたくなかった。

その夜から、イワンはソファで眠った。モブ男はそのことを寂しく思ったが、それは遅かれ早かれ絶対にやってくることだった。モブ男もイワンも、隣にお互いがいないことにいつかは慣れなければならない。そのための心の準備をしているのだとモブ男は思うことにした。

別れの日がやってきた。荷物らしい荷物を持たないイワンはほとんど身一つで扉の前に立つ。同じく玄関に立ったモブ男が、今更ながらイワンの首に巻かれた首輪の存在を思い出した。モブ男の視界にはずっと当たり前の姿だったので、それがおかしいことに気付くのが遅れたのだ。

さすがに、それは外した方がいいとモブ男は言った。イワンは首に手をやって、少し考えたようだった。モブ男を見て、震える声が静かにねだった。「外してくれませんか」ここを出ていくことをようやく受け入れたイワンからの頼みだった。断れるわけもない。

それを外しながら、イワンに言い忘れていたことをいくつか思いだした。モブ男がイワンに何かを言うことが許されるのは、イワンがこれをつけている間だけなのではないかとふと思ったのだ。

無茶なことや無謀なことは絶対にしないこと。食事はちゃんと食べること。モブ男はイワンに言い聞かせる。イワンは不思議そうな顔をしたが、確かに頷いた。

「あと、…逃げないこと」そして首輪が外れた。当然のようにイワンはそれを受け取ろうとしたが、モブ男は渡さなかった。処分しておくからと、捨てられるわけはなかったがそう言うしかなかった。

最後に、これだけは許されるだろうかと思いながら、イワンの頬を撫でる。腫れや赤みは残っていない。基本的に殴られる側だったモブ男は手加減のやり方など知らなかったから、鼓膜など破れてやしないかと、あの夜は本当に心配だったのだ。

駅まで送るというモブ男の言葉に、イワンは頑なに頷かなかった。一人で行くと譲らない。怖い癖に。つい口から零れたモブ男の言葉に、イワンはだからですよ、と応えた。「光るといけないから」光るとは、イワンのNEXTが発動することを指す二人の間だけで通じる動詞だった。

「あなたは、ずっとここにいるんでしょう」モブ男ははっとイワンを見た。ずっとイワンが外を怖がっていた理由の一つを、こんなタイミングで教えられたのだった。イワンは深呼吸をした。そして扉を開けて、出ていった。別れの挨拶はない。その言葉の存在自体、イワンは知らないのかもしれなかった。

外に出て、イワンは一度だけ振り向いた。モブ男と目が合い、歯を食いしばって俯いて歩き出す。おどおどとした足取りの猫背が曲がり角に消えて、ようやくモブ男は扉を閉めた。前途洋々とは言えないであろうイワンのこれからを思う。きっと挫折は一度や二度ではなく、その度にイワンは深く傷つくだろう。

ヒーローになれなくたって、いいのだ。力を制御する方法と、生きていく術と、自分を受け入れる世界があるということを知ってくれたら、それでいい。それはどんなに頑張ったところでモブ男が教えられるものではなかったし、この街には絶対に存在しないものだった。

イワンがヒーローになれるかなんて、モブ男には分からない。だけど、絶対になれないとも、思えない。何年かに一人、新しいヒーローがデビューする。それがもし、暴力に怯え、外界に怯え、未来に怯えていた少年の未来の姿だったら、そのことに勇気づけられる人間だってきっと少なくはないだろう。

つまるところ、モブ男はイワンに証明して欲しいのだ。怯えて、諦めることしか知らない人間だって、強くなれるということを。他人を信じられない人間でも、誰かのために、生きることができるのだと。

イワンのために何ができるのか、モブ男は真剣に考えたのだった。結局その労力はほとんどが金の無心だったことに現実を見た数ヶ月間でもあった。イワンの身元を証明するのに必要な書類が二、三枚程足りなかったために、ことが露見すれば確実に職を失うであろう犯罪もいくつか犯した。

そして、また数年が過ぎた。幸いなことに、モブ男のやったことがばれるような気配はない。もしことが明るみに出たら、公的民間を問わず、小細工のために関わったいくつかの機関の信用を落とすようなことをやった。逆に言うと、ばれない限りは誰も困らない。そんな犯罪だった。

相変わらず、モブ男の職は晴れた日に貸した傘を大雨の中奪っていくような嫌な仕事だ。イワンが出ていってからもずっと神経をすり減らし、胃壁に傷を作り、上司からの嫌味をへらへらと受け流す。イワンからの連絡は、一度もない。それでいいとモブ男は思う。

月に一度、モブ男は職場の自分の机で、イワンの負債を確認する。アカデミーの在学期間が終わり、ローンの残高は毎月順調に減っている。イワンは無事職に就くことができたようだ。そして自分の力で返済を続けている。これ以上の良き報せはない。

だが、友達はできただろうか。休日は家に引きこもってばかりいないだろうか。仲間とちゃんとコミュニケーションはとれているのだろうか。飲み会では同僚の輪に背中を向けて独り言ばかり呟いたりしていないだろうか。仕事中に帰りたいだなんてぼやいたりしてやいないだろうか。

そんな不安や心配は尽きない。確かめる術はなかったが、それを不幸とは思わない。むしろ遠く離れた大都会で生活するイワンを思うのは幸せなことだった。モブ男は強くなった。イワンのために生きることができた。イワンに託した夢を、自分で叶えてしまったような気がするのだ。

モブ男は大都市に本社を持つ銀行の、地方支店に勤めている。最近、ヒーロー事業部の設立と自社ヒーローの初デビューが大々的に発表された。ほとんどの社員はマスコミの報道で知ったので、モブ男もひどく驚いた一人だった。新ヒーローは道化のようにおどけたキャラクターだが、評判は悪くない。

ロビーに置かれたテレビの中で、新人ヒーローが声を張る。

「さあ、みなさんもご一緒に~。あ、シュッシュ」

その声を聞くと、今日も一日頑張れそうだとモブ男は思うのだった。